今月は冬休みのため授業がなく、代わりに1か月間カナダの学校のオンライン授業を受けていました。今までは現地に行かなければ受けられなかった授業も、オンラインで開講されていたりして、留学へのアクセスのしやすさという点ではコロナのおかげで良くなったのかなと思います。さて、今回のレポートでは、「留学中に経験した面白い、変わった体験」を共有したいと思います。正直、現地にいるわけではないためこれといったことは起こらないのですが、気づいたことをレポートしたいと思います。
■世界各国からの多様な同班同学たち
私のクラスは、10か国から、16人の様々なバックグラウンドを持つ学生から成っています。みんな日々真面目に授業に参加しています。
ただ、授業が始まったばかりの10月ごろ、1人の同学がぱたりと授業に参加しなくなりました。先生含めてみんなただの怠慢だろうなあと思っていたのですが、実はインターネット回線を繋げなくなったためでした。彼の国では、まだまだネット回線が高額で(しかも不安定なのは当たり前なよう!)、コロナのためか契約する金銭的余裕がなくなり、CSCの学生なのですが受講をあきらめざるを得なくなったようです。
また、こんなこともありました。私のクラスのある先生は、比較的教科書一辺倒の授業をします(これは賛否両論あると思っています)。例えば、教科書にある宿題として一人でできるような課題についても授業内で数十分とってやらせる(これによって無言の数十分が生まれる、、)など…。これが数日続いたとき、いつも積極的で真面目な同学が、みんなでその先生に意見しようと呼びかけてきました。私含めて数人の学生は意見を言うのは悪くないと賛成したのですが、中には中国の先生に意見をするというのはプライドを傷つけることだし失礼に当たるからやめた方がいいという同学もいました。結局先生にはやんわりとみんなで伝えました(先生に意図が伝わったのかは謎ですが、、笑)。
留学を通して、中国のことを学べるのもそうですが、この人はこんな考え方をするんだ、この国にはそんな文化があるんだ、日本では当たり前なことが世界では当たり前じゃなかったんだなどなど、同学から受ける刺激はかなり大きいです。私は、人を見るときなるべく国籍で一般化しないように意識しているのですが、それでもやはり、ヨーロッパの人たち、新興国の人たちといった括りで比べてみて初めて、日本人である私の特徴というのが浮き彫りになってくることもあります。良い悪い関係なく、自分がどんな人間なのか、比較することで初めて気づけることもあり、改めて様々な人とかかわることの楽しさを感じています。同学たちと実際に会えないのは残念ですが、いつか会えるといいね~くらいの気持ちで、かかわりを大切にしていきたいと思っています。
■「等一下」の語感
先生のパソコンの動きが遅いようで、ときどき授業開始時間が遅れるのですが、その際先生はみんなに「等一下」と送ります。私の感覚として、日本で同じようなことが起こった場合を(無意識に)参考にして、まあ10分くらいかなと思って待ちます。しかし、10分待っても先生は授業を始めません。せっかちだからか、30分たったあたりから、先生まだですか?と送りたくなってきます。でも、同学たちも何も送らず待っているので私もこらえます。みんなどう思っているのかなあ…とも思いながら、授業開始予定時間から45分たってからやっと授業が始まりました。先生は特に謝ることもなく、何事もなかったかのように授業に入りました。
この時、ごくごく当たり前のことなのですが、ちょっと待っての“ちょっと”の感覚って、国によって、人によって、全然違うことに気づきました。長年“ちょっと”の感覚が同じ者同士が集まった日本社会で生きてきて、とりわけこのことに気づかなかったのですが、無意識に私は“日本人”に染まっているんだと分かりました。そう考えたら、無駄な時間を取られて少しいらついていた気持ちもおさまり、まあそんなものかとすぐに流せました。もっと自分を客観的に見られるようになったら、恐らく日々のいらいらすることやストレスもなくなるんだろうなあと思いながら、自分の小ささに呆れるばかりでした。