「新陳代謝」木村水映(北京外国語大学)

半年の留学期間の中で、特に印象的だったのは、コスタリカ出身のクラスメイトに能面の意味について訊ねられたことだ。幼い頃、能管(能楽の笛)を習っていた私にとって、コスタリア出身の友人が日本文化に、中でも能楽に興味を持って質問を投げかけてくれたということは、驚きと喜びでボルテージが爆上がりする出来事だった。

 

留学をしていると、「日本人ならば、日本について何でも知っているだろう」とある種の期待の眼差しを向けられながら日本について問われる機会が毎日のようにある。留学をしたことで、かえって日本独自の文化や習慣・風習、考え方や社会制度について理解が深まったという実感すらあるほどだ。授業に際しても、中国の風習や文化について学ぶ度に「日本ではどうなのか?」という質問を幾度となく受けてきた。ここ最近であれば、結婚式の段取りやご祝儀の金額、返礼品の具体例、禁忌や縁起の良い数字について中国の習慣を学ぶとともに、日本の習慣を中国語で紹介する機会があった。

 

各国の風習と比較しながら一歩引いた目線で日本文化を捉えると、日本で「当たり前」とされる習慣が他国では全く異なるということに改めて気付かされる。世界の中で日本にしかない良さ・魅力を再認識すると共に、他国の視点から日本を把握することで一種の課題のようなものが浮かび上がってくることもある。自らが固定観念に囚われていたという事実を初めて自覚すると同時に、その固定観念を根本から覆すことができるのだ。「世界は広いのだからもっと自由に生きていい」。頭では分かっていても、留学前の私に見えていた世界はまだまだ狭かったと振り返る。可能性と自由の本当の意味を知り、それらを本気で信じられるようになったのが今の私といったところだろうか。

 

価値観が180度変わったか、と言えばそうではない。しかし、各国の自由な風を浴びることで、視野は格段に広くなり、凝り固まった頭の解し方と余分な肩の力の抜き方をじわじわと覚えられるようにもなってきた。日本を一歩出て、日本や日本人、そして何より自分自身を再認識するという貴重な体験ができたのだ。

 

同じクラスの日本人はたった3人。だが他国の留学生にとってはこの3人が「日本(人)の全て」だった。こう言うと少し大袈裟に聞こえるかもしれないが、実際、我々3人の性格が拠り所とされ、「日本人はこういう人だよね」と結論付けられる場面は体感として少なくなかった。私とて、関わった人と出身国をついつい結び付けてしまいがちだという自覚はある。現に、友人との出会いがきっかけで印象が変化し、心惹かれるようになった国も数多く存在する。

 

もちろん、出会った人がその国の全てを物語っているというのは極論であるし、一人や二人の共通点から一国を判断するのはあまりに安易な考え方だろう。しかし、世界中から各国出身者が一堂に会する場において、個人の些細な行動が郷土に対する印象に影響を与えかねないということは紛れもない事実である。ある人にとって自分が最初に出会う日本人だったとしたら、その人の目に映る自分の姿は、「日本人の第一印象」となるだろう。「国外にいるから誰も見ていない、何をしてもいい」のではなく、「国外にいるから『こそ』些細な振る舞いにまで神経を注ぐ必要がある」。日本から一歩外に出れば、日本人の誰もが「日本代表」として評価の対象になり得るのだ。

 

個人の習慣と一国家の文化の違いを見極めるということも留学中に大切にするようになった姿勢の一つだ。

 

半年間生活を共にしたルームメイトは、韓国出身の方だった。留学開始当初は、彼女の習慣に自分とは相容れない部分があっても、「国家間の文化の違いに私が口を出すのはお門違いだ、他国の文化を尊重し受け入れるのが留学生としてあるべき理想の姿だろう」と彼女に意見することを躊躇し、自分の中にストレスを溜めこんで悶々としてしまうことがよくあった。しかし、そんな日々が続き遂に限界に達した私は、「相容れないと感じている習慣は本当に『韓国文化』と一括りにして良いものなのか」という疑問と共に、「自分自身が韓国文化を学ぶことで、韓国人の大まかな国民性を把握し、ルームメイトへの理解も少しは深まるのではないか」という仮説を立てた。そしてこの仮説に希望を託すような思いで、韓国文化と韓国人の国民性を分析した資料にあたり、文献を読み漁った。すると、韓国人と日本人の生活様式の違いや国民性の相違点が徐々に明らかになり、彼女の根底に存在する意識に触れたことで、理解の難しかった行動の原因を紐解くことができるようになった。さらに、国民的に染み付いているという行動様式と個人的な習慣の違いの区別もつくようになり、個人的に習慣としているものに関してはこちらの考えも臆することなく主張できるようになったのだ。自分にとっての「当たり前」を見直すだけでなく、相手にとっての「当たり前」も積極的に学び鑑みることで、上手く折り合いをつけられるようになったのである。

 

「尊重する」ということは、「自分の意見を口に出さないこと」ではなく、「主体的に学ぶ態度を示すこと」。今の私はこう考える。目の前の困難と粘り強く向き合い、煩悶の日々から価値観を改めるきっかけを自ら掴みとれたという経験は大きな自信となった。多様なバックグラウンドを持つ人々と関わり合い、連携をとりながら、大きな成果を出すためのヒントが今回の小さな成功体験に隠されているのかもしれない。