歌声で紡ぎ続けた日中友好 40年の軌跡と未来への展望

2024年8月1日号 /

友好訪問プロフィール

「四季の歌」歌手

せり洋子ようこさん


1970年NHK『歌はともだち』のレギュラー出演を機に音楽界入り。1972年『牧歌〜その夏〜』でレコードデビュー。『四季の歌』のミリオンセラーをはじめ、山男のロマンを情感豊かに歌い上げた『坊がつる讃歌』のヒットにより第28回NHK紅白歌合戦に出場。2015年8月11日には山の日制定施行を前に『坊がつる讃歌』の歌碑が大分県九重にある飯田高原ビジターセンターに建立された。1981年 日中国交正常化後初の日本人歌手として日中文化交流音楽大使を拝命。以後、現在まで19回に及ぶ中国公演を行う。長年日中友好親善の促進に音楽を通し 貢献してきた功績に対し、2016年7月20日当時の岸田外務大臣から外務大臣賞を授与。2021年には東京オリンピック聖火ランナーとして大分県九重町(ここのえまち)、夢の大吊橋を走行。幼稚園・保育園の卒園式の歌として『おもいでのアルバム』(NHK-TV『みんなのうた』でオンエア)。そして高等学校の卒園ソングとして『旅立ちの日に』も長年愛唱されている。X:@seri_yoko

1983年、日中平和友好条約締結5周年を記念し、中国共産党の胡耀邦総書記が国賓として来日。NHKホールでの講演で、日中両国青年の相互理解を深めるため、日本の青年を中国に招待したいと提案した。翌1984年9月、小野寺喜一郎氏(当協会前監事)を総団長とする3014人の青年が中国を訪問した。それから40年。青年訪中団の一員であった歌手の芹洋子さんに、同じくその団の一員であった筆者がインタビューした。


84年三千人訪中団の思い出

あの時は、中国側から3000名余りご招待をいただいたわけですが、いろいろな分野の方がいらした中で、私は文化人の枠で参加させていただきました。当時の印象を一言でいえば、とにかくエネルギッシュでしたね。参加者全員が若者ということで、みな希望に燃えていましたし、その甲斐もあって、とても有意義な交流ができたと思います。個人的に心に残っているのは、私がステージ上で「中日友好、万万歳!」と中国語で呼びかけますと、聴衆のみなさんが大喝采で応えてくれたことですかね。また、ステージ上では、後に習近平国家主席の奥様となられる彭麗媛さんとも共演させていただきました。彭麗媛さんと一緒に「四季の歌」を歌ったことは、今でも良い思い出です。そのときのご縁もあってか、2009年、当時、国家副主席だった習近平さんが来日された際、私は習近平さんに花束をお渡しする大役を仰せつかりました。

汪婉・元駐日大使夫人とのご縁

私はこれまで延べ19回中国でコンサートを開いたのですが、私自身中国語が分からないものですから、毎回、通訳の方が必要です。1984年の訪中時、私の通訳をしてくださったのが、後に程永華・元駐日大使の奥様となられる汪婉さんでした。当時、汪婉さんはまだ学生でしたが、ツアーの間じゅう私の子どもの面倒を見ていただいたりと、通訳に限らず各方面でお世話になりました。それと、「四季の歌」に中国語版の歌詞をつけてくださったのも、汪婉さんなんです。汪婉さんにオリジナルの歌詞に忠実に訳していただいたおかげで、「四季の歌」は中国のみなさんにも親しんでいただける曲になりました。また、汪婉さんとのご縁で、程永華大使に日本でお食事をごちそうになったこともあります。程永華大使は温厚な方で、日中関係を温かく見守るそのお姿はとても印象的でした。

日中友好の未来へむけて

中国の方々が日本に対して関心をもってくださると、私としても大変嬉しいです。例えば、中国では「ふるさと」や「赤とんぼ」といった日本の唱歌に中国語の歌詞がつけられて歌われているんですね。そうやって、日本の文化が中国でも愛されている、というのが大変有難いことじゃないですか。もともと日中両国は長い交流の歴史を有していますが、今年は中国建国75周年ということで、これを機に、日中間の交流がさらに深まることを願っています。特に、84年の往時と同様、青年どうしの溌剌とした交流が、これからも途切れることなく続いていってほしいと思います。

(聞き手:常務理事 大薮二朗、協力:佐野 聡)