北京外国語大学・東洋大学元教授
続 三義さん
1954年、四川省生まれ。4歳から山西省で過ごす。1977年、北京外国語学院(現北京外国語大学)アジアアフリカ語学部日本語学科卒業。同大学助手、講師を経て、1986年、北海道大学留学。1989年、東京外国語大学外国語研究科日本語学専攻修了、文学修士。北京外国語学院日本語学部助教授を経て、1997年、北京外国語大学教授。2008年、東洋大学経済学部国際経済学科教授。2020年、同大学定年退職後も中日対照言語学研究を続けている。2011年より、(公社)日中友好協会主催全日本中国語スピーチコンテスト全国大会審査員。2013年6月号より、本紙「日中おもしろ言語文化比較」執筆。
今号(『日本と中国』2022年4月1日号)で100回を迎えた人気連載「日中おもしろ言語文化比較」。筆を執るのは、全日本中国語スピーチコンテスト全国大会の審査員も務めている、続三義先生だ。その広い視野と鋭い言語感覚は、どのように磨かれてきたのだろうか。
語学研究一筋の道
山西省出身。中学と高校ではロシア語を学んだ。北京外国語学院から自分が住む県に「スペイン語1名」の学生募集があり、自転車で山を越え、隣の県へ試験を受けに行って合格。汽車に揺られて20時間、たどり着いた大学窓口で入学通知書を見せるとこう告げられた。「あなたはアジアアフリカ語学部日本語学科です」。
時は文化大革命の最中。前年、6年ぶりに学生募集があったような状況なので、入学できただけで万々歳。当時多くの人がもっていた「国のため」の精神で、中日国交正常化の翌年(1973年)、日本語学習の第一歩を踏み出すことに。八路軍(人民解放軍の前身)で日本軍と戦っていた父に報告すると、「いいじゃないか。これからは日本と仲良くしなければならない」。故郷でも「日本語、話せるの?」と嬉々として尋ねられるなど、好意的に受け止められた。
日本語に対する知識を持たずに入学したものの、大学では多くの中国標準語(普通話)を使う学生が苦労する日本語の発音にも、山西省の方言に似た音韻体系があったために「苦労は少なかった」と謙遜する。
やがて「音」「訓」の謎も解け、漢字の日本語読みという日本人の「偉大な作業」に感服。中国国内における日本語の需要も増え、卒業後は大学で日本語を教える立場になった。中国人に日本語を教える中で気付いたのが、「中日対照言語学研究」の大切さだった。
いっぽう、日本へ留学し、北海道大学や東京外国語大学で学んだり、愛知県などで中国語講師をしたりしながら、日本語研究にも専念した。「その節は、各地の日中友好協会が交流や勉強する場を設けてくださり、大変お世話になりました」と、今でも感謝している。
1992年以降、専門的に日本人に対する中国語教育に力を注ぐようになり、2020年に東洋大学を定年退職後も中国語と日本語の対照研究を続け、今日に至る。中国でも日本でも、教壇では「相手の国の、一般の人を正しく理解することが大事」と言い続けてきた。中日両国の平和と、両国の人々の相互理解促進を願いながら、語学研究一筋の道を歩んでいる。
出しゃばり大歓迎
今年1月に開催されたスピーチコンテスト全国大会では、「出場者が、新型コロナの影響で中国に行けない現状でも情報に左右されず、自分の体験を通して中国語で友好への思いを語る姿に感動しました」と言う。中国語学習者へのアドバイスを求めると、「より進んで“挑戦”しようとするということかな。私の授業ではいつも“出しゃばり大歓迎”なんですよ」。中国と日本の大学で教鞭をとった経験から、日本人にありがちな控えめな性格は取っ払って、スピーチコンテストにも果敢にチャレンジしてほしいと期待を込めて話した。
(本紙広報部)