中国の棋士は「定石」にとらわれず、自由に碁を打つ

2018年4月1日号 /

囲碁クラブ「サロン・ド・ゴ」 主幹
斎藤 謙明(さいとう けんめい)さん

1931(昭和6)年大阪生まれ。学習院大学哲学科卒業後、産経新聞社に入社。新聞記者退職後は雑誌『囲碁新潮』の編集などに携わる。88年に囲碁クラブ「サロン・ド・ゴ」(大阪市北区西天満)を開き、現在に至る

 

 

大阪で囲碁クラブを営みながら、月刊誌『囲碁梁山泊』を編集・発行している。本紙に連載中の「日中詰碁」の提供元でもある。

大阪出身。高校時代、友人とノートに書いて「五目並べ」をしていると、一人が「碁というもんは囲ったら取れるらしいで」と言った。「じゃあ、それやってみよか」。同級生を相手に打ち始めたのがきっかけだ。

大学進学を機に上京すると、碁会所へ通うように。「あんまり学校へは行かず、囲碁ばっかりしとったなあ。新宿に碁会所があってよく一人で通った」。大人を相手に打ちこみ、すっかり夢中に。「石の具合で心も動く。欲張ったり、怖がったり。人間の心理があらわれるのが面白い」

新聞記者時代は「十段戦」に関わる

卒業後はUターン。「大阪の桜橋に本社ビルを構えたばかりで面白そうだった」と産経新聞社に就職。10年弱勤めた記者時代にはあの司馬遼太郎氏と机を並べた時期もあった。「彼は飲まないし、賭けない。仲良くなかったので、あんまり話しはしなかったなあ(笑)」

一方、社内の囲碁仲間とはたまに打つ間柄だった。自然と人脈も広がり、囲碁の棋戦の一つである「十段戦」の立ち上げに関わっている。「当時は早碁名人戦(十段戦の前身)といって、東京と大阪で別々に催していた。それを一つにした『名人戦をやらないか』と、日本棋院・渉外担当の藤沢秀行という棋士にもちかけられた。予算が高く、話が合わずご破算になったが、『もう少し安くした十段戦はどうか』と言われ、話がまとまった」

中国伝来の囲碁は以前は日本が強かった。江戸幕府が支援し本因坊などの流派が生まれ発展したからだ。しかし今、勢いは中国に。卓球同様に日中交流を囲碁でも、と考えた周恩来総理の要請もあり、1970年代から日本の棋士が中国に招かれ指導。対抗戦も始まって中国のレベルは上がったと語る。「日本の囲碁はこうきたら、こう打つという『定石』というものがある。そんな先入観があんがい考え方を狭くさせたのかもしれない。その点、中国は自由。中国から来た呉清源は、そんなんにとらわれない自由な碁を打った。そういう人のほうが発展に寄与するのかもしれんなあ」

協会活動に協力も大阪で友好対局

2012年には愛知県日中友好協会に協力し、江蘇省の子ども囲碁団と大阪の囲碁愛好家との友好対局を設けた。最近では昨年4月に協会が派遣した大学生訪中団・囲碁分団の学生募集に際し、関西棋院を紹介してくれている。でも、まだ訪中経験や中国人との対局経験はないという。「碁は打たれますか? ぜひ打ってみてください。相手の石をしっかり囲って取る。それだけのルールです。中国? 機会があれば行ってみたいですね」
(北澤竜英)