中国の人たちによる、 中国の人のための絵本作りを

2018年3月1日号 /

株式会社ポプラ社中国現地法人
北京蒲蒲蘭文化発展有限公司董事・総経理
石川 郁子(いしかわ いくこ)さん

東京都出身。東京女子大学文理学部日本文学科・同大学院日本文学専攻卒業。1989年中国に語学留学。1991年から中国外文出版社に翻訳スタッフとして勤務。フリーの著述・翻訳業を経て2000年(株)ポプラ社の中国駐在事務所代表就任、04年から現職。訳著に『北京無頼』(王朔著)、著書に『北京で七年暮らしてみれば』

 

 

初めて中国を訪れたのは1987年、上海で混沌としたエネルギーに魅せられた。ちょうど日本の仕事に少々行き詰まり、閉塞感を抱えていた頃だった。仕事の合間の中国語学習では飽き足らず「大陸の風に吹かれてみたい」と留学を決めた。

2年間の留学を終えて中国外文出版社に勤務。『中国画報』、『人民中国』などの翻訳や編集を担当、雑誌の副編集長も経験した。その後フリーランスで少しずつ活動の場を広げつつあった90年代末、ある出会いがその後の人生を変えた。

ゼロから絵本館を立ち上げた

当時通訳を務めたポプラ社の先代社長から、中国での絵本専門出版社の立ち上げを打診され、「(軌道に乗るまで)10年待っていただけるなら」と引き受けた。当時の中国では海外の絵本を見たことがない人がほどんど。一筋縄ではいかない市場だと肌で感じていた。2000年から駐在事務所代表を務め、04年に北京蒲蒲蘭文化発展有限公司を立ち上げる。外資としては、中国出版物の小売・卸販売資格を取得した最初の企業のひとつとなった。

翌年には北京に蒲蒲蘭絵本館をオープン。中国にはもともと「図画書」という言葉があり、児童向けの本として認識されていたが、敢えて日本語の「絵本」を取り入れる必要があるのか、と異議を唱える現地の職員もいたという。「新しい物を取り込むには新しいビジョンと容器が必要」と懸命に説得した。新華書店のような大型店舗が主体だった当時の書店業界において、斬新な建築デザインと絵本をテーマにした同館は異色の存在だったが、現地の家族連れに喜ばれた。今、中国には数千の〝絵本館〟がある。「商標登録でもしていれば、今頃は収入のメーンになったはず」と笑う。

絵本バブルの先にあったもの

転機は2007年ごろ。育児に対する認識が「厳しくしつけ」から「楽しく子育て」に変化する中、絵本の需要も急上昇。海外絵本の版権価格も高騰した。

現在注力するのが「中国の人たちによる、中国の人のための絵本作り」だ。当初は著名画家らに作画を依頼するも、理解を得られず断られる日が続いた。最初のオリジナル絵本『荷花镇的早市(日本語名:ヤンヤンいちばへいく)』の制作に要した時間は5年。海外の翻訳絵本の方が売れるのにと訝しがる社員らをなだめるようにして現地の画家と作家を探し、オリジナル絵本の制作を進めるうち、徐々に市場での評価も高まり、今では読み切れないほどの原稿が持ち込まれる。「こうなると、みんな達成感も出てくるみたいね」

大陸の風に憧れた一人の日本人女性が、今では中国の子どもたちの頬をやさしく撫でる風の一部になった。そんな爽やかな印象をあたえる国際人だ。
(フリーランスライター・吉井忍)