1948年大阪生まれ。シンガーソングライター/上海音楽学院名誉教授/東京音楽大学特別招聘教授。72年に「アリス」でレコードデビュー。ヒット曲を連発し、実力派アーティストとしての地位を確立する。80年に「昴」を発表。81年に初めて中国・北京を訪れ、日中共同コンサート「Hand in Hand北京」に出演。これを機にソロ活動転身後は中国でも公演を重ね、中国人との結びつきを深める。2003年、「中国SARS撲滅支援コンサート」を大阪で開催し、集めた義援金約1500万円を中国赤十字社に寄付した。 10年の上海万博開幕式では「昴」を熱唱した。15年、紫綬褒章を受章
日中両国が国交正常化した1972年にデビューし、今年で45周年。日本は言うまでもなく、中国をはじめアジアでも絶大な人気を誇るアーティストとして活躍する。6月、1500人のファンを前に45周年を記念する上海公演を成功させた。
「中国全土から集まってくれた多くのファンの皆さんの熱狂ぶり、そして予想外に20代、30代の若者が多かったことに驚きました。自分たちの子どもの世代が熱く応援してくれている。本当にうれしかったです」
本来は2012年に開催されるはずだったが、日中情勢の影響で延期に。5年越しの中国公演だった。
「40周年の時は、文化交流ができず本当に残念でした。政治がぎくしゃくしている時こそ、文化の果たす役割は大きいと思っていましたから…。でもこの5年間、両国のスタッフの皆さんが努力してくださったから実現できた。心から感謝しています」
中国にポップスを伝えた。1981年の北京公演
大阪府出身。1972年に「アリス」としてデビュー。地道なライブ活動を経て、「冬の稲妻」「チャンピオン」など数々のヒット曲を生み出した。そうした中、「中国やアジアに目を向けるきっかけになった」というのが、81年に出演した北京の工人体育館で開催された日中共同のコンサートだった。
「ポップスという言葉を初めて中国に伝えた『アリス』としてのステージは、今も忘れられない素晴らしい経験になりました。そして、通訳の学生さんから『日本はどうして大陸に背中を向けているんですか?』と問われた時、自分もアジア人の一人なのだと初めて認識できた気がします」
「アジア人であることを忘れている日本人は、勘違いしたままだと孤立してしまうかもしれない…」。82年にソロ活動を本格化させると、「音楽でアジアをつなぐ」ことが役割だと考えるようになっていた。
「音楽や歌は国境を越えて人の心に届く」。その原点を体感したのは22歳。初めてアメリカ大陸を横断した旅だった。たくさんの人に助けられ、喜びの涙を流した時、「心を込めて歌えば必ず思いは通じる」と実感した。中国での活動にも結びついているという。
実際、「昴」や「花」など、これまで中国語に訳されてカバーされた曲は少なくない。歌に込めた思いを、多くの中国人が理解し、共感してくれている。
「政治や経済が良い関係の時代から難しい時代に変わったとしても、多くの中国の人が自分の歌のように歌ってくれる。人の心は何にも縛られずに自由であること、その一つの証しが〝歌がつないだ〟人と人との関係です。その国に一人でも好きな人がいれば、その国は『好きな国』になる。これが私の哲学であり、生き方でもあります」
上海音楽学院で教授に。「心の歌作り」を伝授
2004年から5年間、上海音楽学院の常任教授を務めた経験も大きな財産となっている。55歳の時だった。
「楊立青院長(当時)から依頼を受け、上海で直接お会いしました。楊院長から『音楽にとって、一番大切なものは何だとお考えですか』と聞かれ、私は『技術や理論はもちろん大切ですが、それよりも何を伝えたいのかという心が一番大切です』と答えました。すると、楊院長はとてもうれしそうに『私も同感です。それを学生に伝えられるのは谷村さん以外にいないと思い、お願いしました』と言われました。その瞬間から、教授としての新たな挑戦が始まりました」
授業では「誰かのコピーではなく、自分の言葉で心を伝えよう」と歌作りを教え、学生たちが少しずつ成長する姿に喜びを感じた。教え子たちとの交流は今も続いている。
45周年を迎えた今、歌うことへの使命感は一層強まっている。「時代が変わり、生活環境が変わっても、心の中の歌が消えることはありません。アジアの国々の人たちをつなぐ、大切なコミュニケーションツールであり続けてほしい。そんな歌を届ける旅こそが私の使命です。まだまだ、歌い続けていきます」
(北澤竜英)