中国のハンセン病快復村で活動
NPO家-JIA- 顧問
原田僚太郎さん
1978年、神奈川県生まれ。2002年、中国のハンセン病隔離村の村人に出会って惚れ込み、地元の若者たちが村人と出会う場を創り出す活動を行う。その活動の組織化・現地化を過度に進めた結果、2015年末に組織を追われる。現在は「好きな人と好きな事をやる屋さん」をオンラインで創り、1対1で人と出会う場としている(興味のある方はtynoon@gmail.comまでお問い合わせください)。
新聞記者になりたい、そのためにはインパクトのあるテーマで何かしなくては。そんな理由から、中国のハンセン病快復村でのワークキャンプに参加したのは2002年。『三国志』は好きだったが、中国に良い印象はなかった。でも行ってみると、「マスコミの言うことと違うな。皆さっぱりしていて、これが大陸的というものかと」思った。
村では車を取り囲んで歓迎された。けれども、病気が治っているとわかっていても、「顔や手足が変形している人を見て、怖くて車から降りられなかった」。村に住み込みシャワー室を作っていると、村の人が来て言葉が通じないのに指示を飛ばす。疲れてお茶を出されると、手を伸ばす。「どうでもよくなってくるんです。日本人とか中国人とか、ハンセン病快復者とかいわゆる健常者とか」。個人が見えてくると、指の変形もその人の構成要素の1つでしかなくなった。
しかし、村の人は家族に会えない、村に医者がいないと知ると、ハンセン病快復村だったと思い出す。「それでもこの人こんなに笑っているけどなんでだろう」、そして「言葉が通じる地元の若者が村の人と出会うとどうなるだろう」と思い、地元の大学に行ってみた。
人を愛すること
約50人に話をして、残ったのは1人。彼は通訳となり、友達を巻き込んでワークキャンプに来てくれたが、村の人を怖がっていた。
最終日、ベッドに臥せっていたおばあちゃんの家族を呼んだが来ず、「おかしいだろうと。僕自身、尾てい骨が震えるような怒りで涙が出た」。すると、それまで部屋に入ろうとしなかった通訳の彼が、急におばあちゃんに近づき、手を握った。「彼らもこの活動を続けるだろうな」と、その時に思った。〈おばあちゃんのうめき声を聞いた時、君の涙を見た時、人生は短いと思った。人を愛することを教えてもらった〉。彼は後に、そう伝えてくれた。
効率を追求しない場
村の切迫したニーズは減ったが、村に人がいる限り活動はできる。「(前出の)おばあちゃんに『トイレできたよ』と報告した時、『お疲れさま、ありがとう。でも私には、あなたが隣にいることのほうが大切なのよ』と」。若い時に隔離され、体は変形し、年はとる、「それでも、生きることを選んだ人」に出会い、生き方を見つめ直す若者は多い。
昨今のいじめや自殺問題の解決には、「効率追求ではない場を増やしていくしかない」と考える。「その1つがワークキャンプ。効率は追求せず、横のつながりで、どちらかと言えば無駄なことをしている。でも、そこで人と人が出会い、何かを考え、それを体感した人がまた無駄な場を作ることで、縦の社会システムからはじき出された人が居場所を見つけられる」。
地元の学生中心で活動を回すという目標を達成した今、次に目指すものは見えていない。ただ、「これまでの活動の総括はしたい」。今後また新たな出会いをし、次なるミッションを見つけた時、その総括が大いに役立つツールとなるに違いない。
(本紙 田中麻衣子)