中華街紀行国内編の最後の訪問地は長崎。中華街自体のスケールこそ小さいが、長きにわたり、中国と密接な関係を保ち続けてきた街とあって、どこを歩いても濃密な中国文化を肌で感じることができる。旧跡にとどまらず、伝統行事や食文化など、そのルーツに中国が登場するものが少なくない。その点で、横浜、神戸とは異質な魅力があふれているといえる。
前編では、新地中華街と、隣接エリアに残る4ヵ所の唐人屋敷跡を紹介したい。
倉庫が並んでいた中華街
新地中華街へは、長崎駅前から路面電車に揺られ約10分。銅座川沿いを進んでいけば北の玄武門、湊公園を目指せば南の朱雀門、バスターミナル横の道に入れば西の白虎門が迎えてくれる。東の青龍門も含めた4つの中華門は、商店街振興組合が「横浜や神戸と並ぶような中華街に」との思いを込め、福建省福州市から資材を調達して建てたものという。

ただ、中華街自体は狭く、東西南北の石畳の道は、全部で約250㍍しかない。賑やかな横浜中華街のイメージを持って訪れた人は「これでおしまい?」と物足りなさを感じるだろう。
店舗も約40店と多くはないが、名物のちゃんぽんや皿うどんはもちろん、本格的な中国料理も味わえる。また、月餅や縁起菓子の麻花兒などのお土産を見て歩くのも楽しい。麻花兒は麻糸を撚ったような形状が特徴で、長崎市民の間では「よりより」と呼ばれ親しまれている。

中華街の名称に「新地」と付けられているのは、江戸時代中期、この場所が、中国からの貿易品を保管する倉庫を建てるための埋立地だったからだ。元々は唐船が入港する海岸に倉庫が並んでいたのだが、1698年の大火で焼失してしまったのである。
その後、明治初期にこのあと紹介する唐人屋敷が廃止されると、大挙して移り住んだ中国人が商売を始め、現在の中華街の体裁が整えられていった。あまり足を止める人はいないようだが、東西南北の道が交わる四つ角近くの路傍に「新地蔵跡」と刻まれた石柱が立っており、静かに往時の歴史を伝えている。

(右)狭いながらも中国文化を感じられる新地中華街
中華街散策を終え、徒歩で数分のエリアに集まっている唐人屋敷跡へ向かった。このあたりは観光客の姿が少なく、昔ながらの民家も残っており、非常に雰囲気がいい。
日明貿易の時代から長崎は中国との交易を続けてきたが、江戸時代に中国からの貿易船の入港が長崎港に限定されると、物品のみならず、多種多様な唐の文化が持ち込まれた。しかし、江戸幕府が鎖国政策に踏み切ったことで、密貿易を防ぐため、それまでは市内で自由に活動していた中国人を管理下に置く必要が生じ、1689年に造られたのが唐人屋敷であった。
その規模は約9400坪。塀や堀で囲われた敷地内に20軒ほどの屋敷があり、長崎奉行所によって人の出入りは厳重に取り締まられた。ただ、遊女だけは例外だったというのが興味深い。幽閉のような状態ではあったものの、屋敷内までは干渉されず、伝統行事や宴会が頻繁に行われていたという。
やがて黒船来航を機に横浜や神戸などが開港され、長崎は国内唯一の貿易港という優位的な地位を失い、唐人屋敷は役目を終えることになったのである。主が去った屋敷は、1870年に全焼。現在、修復された4ヵ所の遺構が残るのみで、昔日の栄華は偲ぶべくもないが、まずは土神堂から訪ねてみよう。

福建出身者の尽力で建設
土神堂は1691年、福建省出身者によって建立された。唐人屋敷で最も古い建物といわれる。
門をくぐり、石橋を渡った先に、丸窓と反った屋根が目を引く、趣のある建物が現れた。かつては土神堂前の広場で雨乞いの「龍踊り」と「唐人踊り」の演舞が披露されていたという。この踊りの一部は、毎年10月に開催される、1634年から続く伝統芸能「長崎くんち」に踏襲されている。静寂に包まれた広場に立ち、目を閉じて踊りの喧騒を想像してみた。
続いては福建会館へ。前身は1868年に福建省の泉州出身者が建てた「八閩会館」で、改築を経て1897年に福建会館に改められた。「閩」とは福建省の略称である。

会館の「本館」は原爆で倒壊してしまい現存しない。堂々たる正門には和中折衷の様式がみられ、交流の歴史を物語っている。
中庭には孫文の銅像も。神戸編でも取り上げた孫文は、長崎とも深い縁があった。

(右)福建会館には孫文の像が建つ
天后堂は、1736年に南京出身者によって建てられた。唐人屋敷は福建ゆかりの地であるが、なぜここは江蘇省の南京だったのだろうか。
航海の安全を守る神・媽祖が祭られている。媽祖の両脇を固める2体の鬼神は、順風耳と千里眼。順風耳は聞き耳を立て、千里先の悪だくみを媽祖に伝え、千里眼は千里先を見渡し、災禍から媽祖を守っていた。荒海を渡ってきた貿易船にとって、媽祖はひときわ重要な神だったに違いない。

最後は観音堂。唐人屋敷時代のものとされる、入口のアーチ型の石門が見事だ。1737年、ここも福建省出身者によって建てられた。信義を重んじた関帝(関羽)を奉っていることから、信頼関係なくして成り立たない商売にご利益があるとされ信仰を集めている。
かつてはきれいな泉が湧いており、この清らかな水でお茶を飲んでいたという。

中華街と唐人屋敷跡を駆け足で回ったが、中国文化という切り口でみれば、長崎の見どころは尽きない。次回の後編では孔子廟、崇福寺などを紹介したいと思う。
(内海達志)