神戸・元町の中華街は、活気あふれる広大な横浜中華街と比べれば、コンパクトで静かな印象を受けるが、その歴史には数々のドラマがある。老舗の名店も多く、なかでも伝統の「豚饅」は中華街を代表する味であり、連日、行列が絶えない。
また、神戸といえば、孫文(孫中山)ゆかりの地でもある。美しい八角堂が印象的な「移情閣」は、「孫中山記念館」として開放されているので、来年3月に没後100年を迎える「革命の父」の足跡を学んでみるのもいいだろう。
(内海達志)
死の直前、神戸で名演説
中華街を散策する前に、山陽電鉄の舞子公園駅で下車した。JR山陽線の舞子駅と隣接しているが、駅名に「公園」がない舞子駅のほうが、公園寄りに設けられている。
駅を出れば、青い海が迎えてくれ、なんとも気分がいい。全長約3・9㌔の明石海峡大橋は、対岸の淡路島へと続いている。思わず渡りたくなるが、今回は橋上の展望台で我慢し、海辺の道を左へ少し歩き、個性的な3階建ての建物が目を引く「移情閣」へ向かった。淡いグリーンの色彩と、モダンな八角堂(外観は六角堂にみえる)が、明るい風景に溶け込んでいる。
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国の登録有形文化財の「移情閣」。明石海峡大橋開通に合わせて2000年に近隣の現在地に移築した |
窓からは明石海峡が望まれる |
浙江省寧波出身の実業家・呉錦堂の別荘があった場所に、1915(大正4)年に建てられたのが「移情閣」で、六甲の山々、瀬戸内海、淡路島などの「移り変わる風情」を楽しめる場所というのが名前の由来らしい。1984年からは「孫中山記念館」として一般公開されており、充実した展示資料を通して、孫文の生涯を学ぶことができる。
孫文は日清戦争下の1894年から亡くなる前年までの約30年の間に、実に18回も神戸を訪れている。1913年3月、「全国鉄道計画大権」の肩書きで来日した際は、呉が別荘に招いて歓待した。辛亥革命から2年、神戸の華僑は日中関係の発展に大きな期待を寄せていたのである。
数ある孫文の神戸との関わりの中で、特筆すべきは、ちょうど100年前の1924年11月に県立神戸高等女学校で「大アジア主義」について力説した講演だろう。「日本は欧米のような侵略的覇道ではなく、アジア諸国と協力しあう王道を」と訴えた。翌年3月、孫文は北京で永眠したのだが、最後の来日となった神戸での演説の反響を、病床でずっと気にかけていたという。
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孫文の胸像 | 有名な言葉「天下為公」の石碑 |
孫文の没年、その功績を顕彰し、故郷の広東省香山県は中山県(のちに中山市)と改称した。中国へ行くと、どの街にも中山路、中山公園など、たくさんの「中山」表記を目にするが、由来は孫中山である。没後100年の来年、中山市に残るゆかりの地を歩いてみたいと思う。
愛され続ける「豚饅」
舞子駅から元町駅へ移動し、観光客で賑わう中華街を巡った。本連載の国内編では、神戸に続き横浜、長崎の「三大中華街」を紹介する予定だが、神戸だけは中華街ではなく「南京町」の呼称が広く浸透している。
江戸時代、開港された長崎での貿易に従事していた中国人の多くが南京周辺の出身だったことから、当時は中国人を指し「南京さん」と呼ぶ習慣があった。その名残で、横浜も長崎も中国人が多く居住する地域は南京町だったのだが、のちに中華街と改められたのである。ただ、現在の南京町は通称であり、正式な地名ではない。
中華街は、東に「長安門」、西に「西安門」、南に「海栄門」が建っており、門がない北(将来的に設置予定)は元町商店街と接している。「海栄門」を出て国道2号の方向へ進むと、途中に「移情閣」とは対照的なモダンなビルがあり、2階に「神戸華僑歴史博物館」が入っている。
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狭いながら活気がある中華街 | 「長安門」には「敦睦」の文字が |
明治元(1868)年に神戸港が開かれたのを機に、多くの中国人が商売を始め、南京町は殷賑を極めた。しかし、戦時中はスパイ嫌疑をかけられた無実の華僑に対する拷問、大空襲による全焼といった苦難に見舞われ、荒廃した南京町はバラックからの再出発を余儀なくされることに。
戦後は長らく暗いイメージがつきまとうなか、昭和50年代に区画整理事業計画が浮上し、「このままでは南京町が終わってしまう」と奮起した華僑たちが商店街振興組合を立ち上げ、人気の観光地として変貌を遂げたのである。
その後は1995年の阪神・淡路大震災も、人々が力を合わせて乗り越えた。震災から10年目に完成した「西安門」には、「光復」との文字が刻まれている。中国語で「復興」の意味だ。こうしたガイドブックには載っていない歴史を、博物館では詳細に伝えている。
中華街の中心に設けられた「あずまや」は、広いスペースがあり、老若男女が楽しげにおしゃべりする光景がみられる。ほぼもれなく彼らが手にしているのが、目の前にある行列が絶えない繁盛店「老祥記」の「豚饅」だ。
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ライトアップされた「あずまや」
創業は1915年。曹松淇が妻の千代とともに、天津の包子(饅頭)を日本人向けにアレンジしたうえ、本場の味を広めようと開店した。中国から持ち込んだ秘伝の麹を用いた皮が特徴で、初めて食べてみたが、ほのかな甘酸っぱさが食欲を刺激する。
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これが豚饅の元祖
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夜も行列が続く「老祥記」
不幸にも若くして夫を亡くしてしまうが、肝っ玉が据わった千代は、人望が厚く、地域のまとめ役でもあった。戦争中は店の宝である麹を必死に守り抜いたという。現在は4代目が伝統の味を受け継いでいる。
華僑の心の拠りどころといえる関帝廟が中華街に存在しない。横浜中華街とは違い、居住者が少ないためで、関帝廟はかなり離れた生活圏の中にある。
シャッターが閉まったあとの中華街は、昼間の喧騒が噓のように、静寂に包まれていた。