高速鉄道時代に突入した中国だが、日本では遠い昔に姿を消したSLが、雄大なロケーションのなか長きにわたって活躍し、多くのファンを魅了していた。そんな迫力満点のSLを、全国各地を飛び回り追い続けてきたのが写真家・小竹直人さんだ。中国への渡航歴は90回を超え、撮影をサポートしてくれた現地のガイドや友人とは深い絆で結ばれている。観光列車を除き、中国でもSLが役割を終えたいま、改めて思い出を振り返っていただいた。
(内海達志)
初訪中で受けた衝撃
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〈こたけ なおと〉1969年、新潟県生まれ。日本写真芸術専門学校卒。1990年から中国でSLを追い続け、訪中歴は90回以上を数える。写真集・著書多数。写真展は中国でも好評を博した。(西新宿のOM SYSTEMギャラリーにて)
1990年、著名な鉄道写真家・広田尚孝氏の撮影ツアーに参加したのが、中国のSLとの出合いだった。写真学校に在籍していた21歳の青年は、ダイナミックなSLのみならず、人民のパワーにも衝撃を受けた。
「それまで中国に関心はなかったのですが、自分が生まれる前の、映像でしか見ていない世界に舞い込んだ感じでした」
充実したツアーだったそうだが、その後、この国に90回以上も通うことになるとは思ってもいなかったに違いない。
「元々、日本のSLには興味を持っていました。よく言われる例えですが、人間に似た息づかいがありますよね。16歳のときイベント列車の躍動感に感動し、これが一番の被写体だと思いました」
だが、能登半島でイベント列車が運転された際、若い撮影者が地元の人に悪態をついたのに憤慨し、「こんなマナーの悪い連中とは一緒にやっていられない」との思いから、SLのような三脚が林立しがちな現場は避けるように。そこで、注目する人が少なかった地方のローカル線に足を運び、「いつか作品を写真展や写真集にまとめたい」との夢を抱いたのだった。
1990年代、わざわざSLを撮るために中国の辺地まで訪れる日本人はほとんどおらず、「人が群れないところで好きなSLを追う」という願望が叶ったといえる。のちに今度は自身が引率者となって撮影ツアーを催行し、良心的な料金と盛りだくさんの内容で大好評を博した。実際、小竹さんの写真集に感化され、中国を目指した人も少なくない。文庫本『中国最後のSL撮影ガイド』には、「個人でも、もっと気軽に中国へ撮影に行ってほしい」との思いが込められている。
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よい写真を撮るには忍耐力が必要であり、冬はマイナス35度にもなる厳しい環境に身を置くことも。しかし、決して無理をしないのが小竹さんのスタイルだ。
「ここぞというときには粘りますが、基本は疲れたら休み。あまりに寒いと撮影を切り上げ、ガイドと酒を飲みに行きました。私もガイドもダラダラ飲み続けるのが好きなので、ツアーのときは、撮影後にお客さんも付き合わされることになりました(笑)」
もちろん、参加者にとってはこれも楽しいひとときで、毎日、違うレストランでさまざまな料理が提供されるのも魅力だった。これはサービス精神旺盛なガイドの心意気。小竹さんとガイドの信頼関係は厚く、やがてお客さんが個人旅行で直接ガイドとやり取りするようになった。
食と酒が旅の大きな楽しみという小竹さんの好物は、犬肉の鍋と羊肉のしゃぶしゃぶ。偶然にも、筆者の二大好物だったので意気投合した。
「吉林省では毎晩、犬鍋を食べていました。出汁がうまい激辛スープで長い時間煮込んでいると、より旨みが出てくるのです」
また、小竹さんが「特に思い出深い路線」として挙げた、黒龍江省の大興安嶺にあった森林ナロー鉄道では、鉄道関係者から食事に誘われ、山の珍味を味わった。
「山鮎という魚の煮付が絶品でした。辛口の白酒とよく合って……」
このように地元の人と同じ飯を食い、酒を酌み交わすことで、仲良くなって撮影に協力してもらえるケースもあった。小竹さんの人柄といえるが、中国人との付き合い方について、「言葉が通じなくても常に堂々と。彼らは好奇心が強いので、何かを伝えようとする気持ちをしっかり示すことが大事だと思っています」と話す。
SLを終焉まで見届け
そんなポジティブなスタンスが、ある印象的な作品を生み出した。場所は黒龍江省牡丹江の郊外にある山底村。小さな村を囲むように浜綏線が走っており、小竹さんは背景に列車がみえる小学校へひとりで入って行った。SLが通過するタイミングに合わせ、校庭に並んだ子どもたちを撮影しようと考えたのである。
「火車撮影」という文字とイメージを描いた絵を先生にみせると理解してくれ、しっかりカメラに収めることができた。まさに堂々と交渉した、小竹さんの行動力の賜物といえる。
この話には続きがある。成功はしたものの、1クラスの児童しかおらず、物足りなさを感じた小竹さんは、翌年、また同じ小学校を訪問したのだ。校長も「みんなの記念になる」と喜び、今度は全校児童が勢揃いした圧巻の構図になった。
そして、この話にはさらに続きが。二十数年後、再び山底村へ向かった小竹さんは、タクシー運転手の青年との雑談で年齢と出身地を聞き、ふと「あのときの児童のひとりでは」と閃いた。
「そうだったらドラマチックなのですが、残念ながらとなりの村の小学校でした」
この小学校の写真に象徴されるように、小竹さんの作品は、主役のSLがドーンと画角を占めるものばかりではない。SLの運行に奮闘する人たちや、沿線に暮らす人たちの息づかいが伝わってくる作品も多く、SLの息づかいとあいまって、独特の味わいを醸し出しているのだ。そして、旅心を刺激する温もりにあふれた文章からも、自然体で中国や中国人と向き合っていることが伝わってくる。
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ところで、インターネットが普及していなかった時代に、どうやって辺境鉄道の運行状況を知り得ていたのだろうか。
「衛星地図が好きな人が、路線のありそうなところをマーカーで塗り送ってくれたのです。ふつうの人は何か明確な目的があって訪れるのでしょうが、私の場合は本当に路線が存在するのか確認するために出かけることもあるわけです。また、ある英国人は炭鉱のある場所を細かくチェックしていました。石炭とSLは切っても切れない関係ですからね」
こうした情報を手掛かりに、消えゆくSLを追い続けること30余年――。今年1月、ついに新疆ウイグル自治区で中国におけるSLの歴史が終焉した。最後の列車は、火柱があがることで話題となったSLだった。
「SLというテーマは10年くらいで終わるかと思っていましたが、よくここまで続いたな、というのが正直な感想です。1990年代から北京五輪が開催された2008年までは、中国社会がめまぐるしい変化を遂げた激動の時代。五輪のあと、高速鉄道が次々と建設されていくなかでもSLが生き残ったのは『何が起こるか想像がつかない』中国ならではという気がします。最後までSLを見届けられたのは幸せですし、かけがえのない体験でした」
中国社会の変化は、SLを追うファンにも表れていた。豊かになり、高価なデジタルカメラを手にした中国人の撮影目的は、フィルム時代の家族の肖像とは違い、レアな対象を求めるようになった。新疆の火柱SLや、1995年に開業し、各地から寄せ集められたSLが約10年も活躍して「奇跡の路線」と称された内蒙古自治区の集通線では、日本のデジカメを持った中国人が目立っていたという。
時代遅れのSLは、ノスタルジーとパフォーマンスの両面で魅力を備えた被写体だったのだ。2009年に北京で開かれた小竹さんの写真展&トークショーにも、多くの中国人が来場した。
SLが消えていっても、小竹さんの中国への情熱は消えなかった。中朝国境地帯の鉄道を巡るという新たなライフワークを見つけたからだ。取材を通して、かつて訪れた吉林省汪清の森林鉄道のルーツが旧満州鉄道であることなど、多くの発見もあった。
「森林鉄道は2000年代に廃止になったのですが、二十数年ぶりに当時の駅舎と再会し、感慨深いものがありました」
さらに今後は、一帯一路政策で結ばれた国々の検証にも意欲を燃やしている。
「SLという土台があったからこそ中朝鉄道に結びついたのだと思います。『中国』は生涯、関わっていくテーマでしょうね」