中国鉄道の旅はワクワクするような体験が待っているが、乗車する前にはハラハラさせられることが多い。というのは、最近はいくらか改善されたものの、人気路線や人気列車の場合、チケットの入手が非常に困難だからだ。長い順番待ちに耐え、1枚の紙片を手にしたときの喜びは、同じ苦労をしてきた人には分かってもらえるだろう。今回は、これがなくては旅が始まらない「チケット(車票)」にまつわる思い出を振り返ってみたい。
(内海達志)
「実名制」で転売撲滅
中国の駅は、チケット売り場(售票処)が駅舎に隣接する別の建物になっていることが多い。中へ入ると、たいてい長い行列ができており、ひと昔前は、割り込みが日常茶飯事であった。順番が来たら、日時、列車番号、行先など必要な情報を、中国語で淀みなく伝えなければ、と緊張したのを思い出す。モタモタしていると、後続の人に急かされるうえ、窓口の販売員に「次の人!」といった感じで追い払われることもあるからだ。
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①北京市内のチケット売り場。駅へ行かなくても買えるのは便利だ
しかし、画期的な割り込み防止バーが登場し、さらには中国人のマナー意識が格段に向上したこともあり、秩序が保たれるようになったのは大きな進歩といえるだろう。そして、販売員の接客ぶりも穏やかになった。中国語に自信がない人は、紙に必要事項を記入して差し出せば、問題なく発券してくれる。ただし、「没有」だった場合は、改めて列に並び直さなければならないが。
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②成都駅のチケット売り場と臨時待合室。春節シーズンは人であふれ返る
近年、チケット入手難は緩和された印象だ。理由のひとつには、高速鉄道網の拡大が挙げられる。在来線の利用者が高速鉄道に流れた影響で、これまで最も人気が高かった、長距離列車の2等寝台(硬臥)は随分と買いやすくなった。
また、2011年6月から、「実名制」(写真③)が実施されたことも大きかったように思う。チケットを購入する際、身分証明書(外国人は主にパスポート)を提示する制度で、その背景には人気列車のチケットを高額で転売するダフ屋を一掃する狙いがあった。このような対策を講じなければならないほど、大量買い占めが横行していたのである。
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③左下のTRで始まるのが筆者のパスポート番号。新会の下に「無座」と印字されている
筆者も何度か声をかけられたことがあるのだが、彼らの言い値は驚くほど高かった。正義感というより金銭的な事情で断ったものの、もっと安ければ心が動いたかもしれない。実際、商談成立の場面を見たことがある。お互い悪びれた様子もなく、ごく日常的な光景にみえた。
「実名制」の効果は絶大で、チケット売り場から怪しげな人間が消えた気がする。ただ、これまでのように、現地の知人に事前購入を頼めなくなったのは残念だ。他人の身分証明書で買ってもらったとしても、乗車時に身分証明書の照合があるので、トラブルの火種になりかねないルール違反はやめたほうがいい。
硬券から磁気タイプへ
ここからは筆者のコレクションをみていこう。コンピューター発券システムが導入される以前は、コレクター垂涎のいわゆる「硬券」(写真④)が使用されていた。天津―北京のチケットには96年の刻印がみえる。10元という今では信じられない料金であり、隔世の感を禁じ得ない。
成都―昆明間には、寝台車を示す「臥」のスタンプが。下段の「下」はあるが、号車や席番はどこに記されていたのか忘れてしまった。冷房がない真夏の夜汽車は蒸し暑く、みな窓を全開にし、男性は上半身裸になり、深夜まで談笑していたのが懐かしい。
右の2枚は、いずれも廃線になったローカル線である。今では滅多にお目にかかれない1・30、1・80といった元の下の単位である角、しかも5ではない半端な数字が用いられているのが時代を感じさせる。
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④90年代の硬券。赤鉛筆の線は検札済ということ
薄っぺらな紙のチケット(写真⑤)は、車内で車掌が発券したものだ。達筆(?)すぎて、手書きの文字が判読できない。
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⑤車掌が携帯している車内補助券。手書きの字に個性が表れる
きれいに印字されたもの(写真⑥)は、2006年に遼寧省瀋陽市で開催された「国際園芸博覧会」の会期中、瀋陽駅と臨時に設けられた世博園駅の間を往復していた特別列車の専用チケットだ。乗客に配られた時刻表(写真⑦)ともども、かなりレアな「お宝」といえるだろう。
![]() ⑥博覧会限定のチケット。3元と安かった |
![]() ⑦博覧会期間中の特別列車の時刻表 |
硬券のあとに主流となったのが、赤い紙のチケット(写真⑧)である。北京北―八達嶺は4・5元で、「普客」とは鈍行列車のこと。八達嶺はあの万里の長城の所在地であり、当時、中国人でもこれほど格安に長城観光ができることを知る人は少なかった。
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⑧赤い紙のチケット。長く使われていた記憶がある
高速鉄道時代の到来とともに、青い磁気タイプのチケット(写真③)に移行していく。「無座」というのは、文字通り「座席が無い」ことを意味しており、空席があれば着席してよかったものの、そんな幸運は稀であり、長距離移動では想像を絶する苦行であった。中国の列車は、基本的に全席指定。満席でも「無座」のチケットは売ってくれるが、安くなるわけではないから、いっそう悔しさが募った。
駅舎だけが大きく写っているのは、構内のVIPルームのチケット(写真⑨)だ。この写真は湖南省の長沙駅。筆者が2年余り暮らしていた街であり、当時の20元は安い額ではなかったが、記念に一度くらい体験してみようと思ったのである。空港のそれとは違い、正直、「VIP」と呼ぶほどの場所ではなかった。
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⑨VIPルームのチケット。筆者はこの1枚しか所有していない
上海磁浮列車と書かれているのは上海リニアモーターカー(写真⑩)だ。初めて乗ったときのスピード感は今も記憶に新しい。
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⑩上海リニアのチケット。デザインもスマートだ
このようにチケット1枚からも、中国社会の変化や発展が垣間見える。キャッシュレスは日本の先を行く中国だから、やがてチケットのペーパーレスも進んで行くのだろう。
筆者にとってチケットは、旅の思い出を呼びさます大切なアイテム。中国は目的地で回収しないのがありがたい。