アニメやゲームで日本でもお馴染み、中国古代の殷周革命を舞台とする小説『封神演義』。週刊少年ジャンプ(集英社)で連載されたコミックは、累計発行部数2200万部を超える人気です。
『日本と中国』での「封神演義絵伝」連載開始にあたり、中国文学研究者の二ノ宮聡先生に『封神演義』についてご紹介いただきました。
作者と成立時期
『封神演義』は明代に成立した全100回の章回小説で、殷周革命を舞台としている。
物語では殷側に通天教主を代表とする「截教(せつきょう)」、周側に元始天尊を教主とする「闡教(せんきょう)」の仙人や道士たちが援軍として加わり、人間界の王朝交代物語にとどまらず、数多くの仙道たちが仙術や「宝貝」という特殊な力を宿す武器を使い戦う場面が見せ場となっている。
『封神演義』が成立した明代は、『西遊記』、『水滸伝』、『三国演義』など多くの白話小説が出版された時代でもある。これら白話小説は、例えば『封神演義』であれば『武王伐紂平話』のようにベースとなる話があった。また、民衆の間では様々な故事や民間の伝承が長い時間をかけて語り継がれ発展してきた「語り物」があり、これが小説へと発展していった。そして明代になり、これら語り物や基となる物語等が一つの作品としてまとめられたのである。ゆえに『三国演義』の作者は羅貫中、または施耐庵とされるが、これは様々ある『三国演義』の中の羅貫中バージョンとでも考えたほうがよい。様々な語り物が基になっているため、厳密な意味で作者を特定するのは不可能に近いといえる。
また、『三国演義』の作者を羅貫中または施耐庵と書いたが、実は作者も現存する版本で確認できる場合に限られている。例えば魯迅は『中国小説史略』(Ⅰ) において、『封神演義』の作者について次のように記している。「『封神伝』百回、いまのテキストには作者の名を記さない。梁章鉅は、「林越亭先生がかつて私に話された。『封神伝』という書はさきの明朝の名のある人の撰したもので、『西遊記』『水滸伝』と鼎立させようとしたのだ……」。しかし名のある人の名は言わない。日本には明刻本があって、許仲琳編と題する」。
魯迅の言葉を借りるなら、魯迅が目にした『封神演義』版本の中に、作者を特定できる記述が見られる版本はなかった。日本にある明刻本(現在は国立国会図書館に所蔵)には、許仲琳編と書いてあるらしい、と魯迅自身も作者が記された『封神演義』を見たことがないようである。このように『封神演義』の作者に関しては、今なお定説はない。(Ⅱ)
- 魯迅『中国小説史略』第十八篇「明之神魔小説(下)」。ここでは中島長文訳注『中国小説史略2』、平凡社東洋文庫、1997年を使用した。
- 『封神演義』の作者については、「許仲琳」、「陸西星」、「許仲琳と李雲翔の合作」とする説がある。
物語と主人公・太公望
『封神演義』のストーリーを簡単に紹介したい。
先に紹介したように物語は殷周革命を舞台として、殷には通天教主が率いる截教、周には元始天尊が率いる闡教が力を貸し、仙人同士の戦いが繰り広げられる。截教は、動物・植物・森羅万象に由来する仙人、闡教は、人間が修行の末に成仙して、仙人や道士になった者たちの集まりである。太公望は32歳で仙人としての修行を始め、40年間修行に励むも道士としての才能は開花しなかった。そのため元始天尊から人間界にくだり活躍するよう言いつけられ、崑崙山から下山したのである。
太公望が人界に下った時、人界は殷(商)の紂王の治世であった。紂王は名君であったが女媧廟の祭祀において「女媧はどの人間よりも美しい、女媧が私のものであったらいいのに」という詩を詠んだ。これに女媧は怒り、千年生きた狐狸精に紂王を陥れるよう命じる。狐狸精は、後宮に入ることになっていた冀州侯の娘妲己(だっき)の身体を手に入れ、紂王を籠絡する。これ以降紂王は、妲己に操られるまま暴政を行うようになっていった。
一方仙界では、闡教の教主・元始天尊門下の崑崙十二大仙が人を殺さねばならぬ劫を迎えようとしていた。この劫は1500年に一度やってくる逃れられぬものであった。また昊天上帝(天帝)が彼ら十二人を臣下に命じたことから、殷周革命に関わる闡教徒、截教徒、人道の中から三百六十五位の「神」として「封」じる「封神」の儀式を行うことになった。そして天命により、この封神の執行する者として選ばれたのが姜子牙、つまり太公望なのであった。
『封神演義』の普及
登場する仙人や道士は、元始天尊のように道教や民間信仰で実際に祀られる神々だけでなく、『封神演義』オリジナルも数多く存在する。
例えば、截教教主の通天教主、太公望の弟弟子である申公豹などである。だが、中国の寺廟を巡っていると、これら『封神演義』オリジナルの神仙が祀られている場面に出くわすこともある。これは『封神演義』が民間で広く普及していく中で、人気を博した神仙がいつの間にか祀られるようになった、さらにはもともとあった神格と名前が似ているなどの理由で混同されてしまった場合など様々な理由がある。これは単に人々が現実と虚構の神仙を間違えたというだけでなく、民衆の間で『封神演義』がいかに広く普及し、強い支持を得ていたかの証拠でもある。民間信仰で祀られる神々は、人気商売のような面を有している。人気のない神は信仰が衰えていき、ついには祀られなくなり消滅してしまう。一方で人気を集める神は信仰活動が盛んとなり、新たな故事が作られたり、神格が付されるなど信仰が発展していく。
また、道教や民間信仰の神として祀られる登場人物も枚挙にいとまがない。闡教の楊戩(ようせん)は戦いの神、哪吒(なた)はもともとは仏教の護法神であったが、その後、中国で変容して道教の神となった。截教では、趙公明は玄壇元帥であり、現在の中国では財神として各地の廟で見かける。他にも魔家(まけ)四将や黄飛虎など挙げればきりがない。こうした神々の実際の神格と物語での描かれ方を比べたり、実際に中国の寺廟を訪れ探してみるといった事も『封神演義』の楽しみ方の一つである。
他にも、漫画やゲームの影響から太公望は若いというイメージを持っている人もいるかもしれない。だが上述したように太公望が崑崙山を下った時、すでに72歳の老人であった。さらに、周の宰相であることから文人で非力なイメージを持つかもしれないが、実は甲冑を着込み、手に打神鞭を持ち、四不相という神獣に乗る老武将なのである。
日本での『封神演義』
日本での『封神演義』は、『最遊記』や『三国演義』と比べ知名度は今ひとつである。また、物語の構成や細部の設定などに甘い部分があり、小説としての完成度が高いとは必ずしも言い難い。しかし、そこに登場する仙道や彼らが使う術や宝貝は、創造性に富み、読者を物語に引き込み、夢中にさせるに十分以上の魅力を持っている。まだ『封神演義』を読んだことの無い方は、ぜひともこれを機に一度は読んでいただけたらと願う次第である。
最後に手前味噌になり恐縮であるが、筆者は以前に共訳で『封神演義』の日本語版『全訳 封神演義』(勉誠出版)を出版している。本書は小説中の詩歌も含め全文を訳した初の日本語版である。筆者の力量不足で原文の表現を十分に訳出できていない箇所も多々あるが、それでも『封神演義』の魅力は十分に味わっていただけると思う。興味があれば書店で探していただければ幸いである。
文◎二ノ宮 聡(中国文学研究者、北陸大学講師)