普通話はつらいよ

2025年3月1日号 /

「わたくし、生まれも育ちも中国上海、黄浦江で産湯を使い……」というのは半分ホントで、半分ウソです。すみません、変な自己紹介で。私、佐野聡と申します。1992年上海で生まれ、5歳のとき日本に移住。その約1年後、日本国籍に帰化。そしてそれから幾星霜、今年、念願叶って中国語検定1級に合格することができました!

と、カタカタキーボードを叩いているうちから、辛口読者からの「お前はネイティブなんだから受かるのも朝飯前でしょ、フン!」というツッコミが私の脳内に鳴り響いております。ああ、私が中国語ネイティブだったら、人生どんなに楽だったことか!何を隠そう、私は普通話(中国語の共通語で北京語がベース)のネイティブではなく、悲しいかな、自分でも知らないうちに上海語ネイティブとしてすくすく育っていたのです。それは昔の中国のことです。私の祖母は普通話はおろか読み書きすらまともにできませんでした。祖母は上海語しか喋れず、そんな祖母に5歳まで育てられた私は、当然のなりゆきとして「母語」いやもとい「祖母語」をすっかり自家薬籠中の物としていたのです。

「上海語といっても、所詮は方言なんだから、共通語と大して差なんてないんでしょ。どーせ、107歳まで生きた金さんと108歳まで生きた銀さんくらいの違いでしかないんでしょ」とお思いのそこのアナタ。不!断じて、不!そういうアナタにひとつ、私からお願いです。どうか一度、中国の広さに思いを馳せていただきたい。上海と北京がどれだけ離れているかご存知ですか?1300kmですよ!パリとローマの間でさえ1100kmしか離れていない、というのですから、上海語と普通話の差は、フランス語とイタリア語の差より大きいはずなのです。ノンホーとニーハオ、ボンジュールとボンジョルノ。何で片方は方言として扱われ、もう一方は国語なのか、私には承服できません!

とはいえ、幼少のころ上海語をインストールされて日本にやって来た私に、何か中国語学習をする上でアドバンテージがあったか、と問われれば、正直に白状しますが、ありました、ありましたとも(泣)。受験勉強に疲れ果て、大学ではラクしようと固く決意した私は、必修の第二外国語を選択する際、ボールペンを持つ手が勝〝手〟に中国語(ただし、もちろん普通話ですが)のところをチェックしていたのです。初回の授業の際、周りの生徒がb(無気音)とp(有気音)の違いやら声調といったものに首を傾げてポカンとしている中、私はというと、先生の解説がなんとポカリの浸透圧並みに頭に入ってくるではありませんか!しかし、ここで自分の名誉のために言わせてもらうと、当時大学一年生だった私は、天に誓って、普通話がチンプンカンプンだったのです。

その後、寅さんみたいにいろいろあって、新卒で入社した会社を一年あまりで辞めた私は、これまた懲りずに寅さんみたいにフラフラしていたところ、運よく日中友好協会と巡りあい、有難いことに中国留学のチャンスをいただきました。そして、1年間の中国留学を経て、ついに中国語検定1級に合格できるレベルにまで到達したかと言えば、さにあらず。だから、普通話はつらいよ。私は、帰国後も1級合格を目指しコツコツ勉強を続けました。そして、三度目の正直は華麗にスルーしちゃったものの、四度目の挑戦でやっとこさ合格を手にしましたとさ、めでたし。

最後にひとつ。私にとって、上海語しか出来なかった祖母の下で育ったという経験はもちろん「悲しい」ことなんかではありません。それは、いくらおカネを積まれたとしても譲れない貴重な財産です。さて、今回私が二次試験(口述試験)を受ける前日、その祖母が上海で安らかに息をひきとりました。きっと天国の祖母も、今回の合格をお祝いしてくれているとともに、もしかしたら、今や上海語より普通話の方が流暢になった生意気な孫のことを、心の片隅でちょっぴりさみしくも思っていたりするのかもしれません。

文 ◎ 佐野聡
2019年度中国政府奨学金留学生として南京大学に留学。
現在、プロの通訳者を目指し、サイマル・アカデミーで修行中。