2018年8月8日、北京を訪問中の(公社)日中友好協会・会報『日本と中国』取材団は、日本駐在記者を経て長く日中交流に携わった劉徳有・元中国文化次官と懇談、40年前の日中平和友好条約締結や園田直元外相とのエピソードなどについて話を聞いた。日中関係史の「生き証人」の一人として知られる劉氏の証言からは両国の「平和と友好」への強い思いが感じられた。
感銘を受けた園田外相の責任感
1964年9月29日から『光明日報』の新聞記者として東京に駐在した。その後中国では文化大革命が起こって、その影響もあり、それから15年間も日本に駐在することになった。当時の私は雑誌『人民中国』からの出向という形で新華社通信に所属していたが、中国と日本が結んだ記者交換協定では、駐在員は通信社か新聞社で「1社1人まで」という規定があった。そのため、私は中日友好協会の廖承志会長から「『光明日報』の記者になりなさい」と指示された。光明日報は新華社のすぐ裏手にあり、一時帰国の際は報告に便がよかった。しかし、通常は3年ほどで駐在任務は終わるものだが、私の場合は休暇で一時帰国するたびに「すまないがもう少しだけ日本にいてくれないか」と言われ続け、15年が経った。ようやく任務を終えて帰国したのが78年6月10日。中日平和友好条約がまもなく結ばれるという時期だった。帰国した2日後の12日に、深く尊敬していた郭沫若先生(中日友好協会名誉会長)が亡くなられた。
日本駐在を終えて帰国したその年の8月8日、中日平和友好条約の調印のために園田直氏が日本の外務大臣として北京へ向け出発した。ちょうど、40年前の今日になる(取材当日が8月8日)。
園田氏のことは、古くからよく知っていた。1954年に園田氏を含む日本の超党派の議員団が北京を訪れた時、私は通訳として接待したことがあった。代表団はストックホルムの世界平和会議に出席した後に北京に入り、東単にある「北極閣」という簡素な宿泊施設に泊まった。団員には中曽根康弘氏(元首相)や桜内義雄氏(元衆議院議長)らもいた。新米通訳の私は緊張しっぱなしだったことを覚えている。日本駐在時に取材で園田氏を議員会館に訪ねたこともあった。私のことを覚えていてくれて熱烈に歓迎され、うれしかった。基本的には保守系の議員だがその頃から中国に対する態度は良かった。私にも、園田氏が自分のことを覚えていてくれたことへの感謝の気持ちがあった。
その園田氏が北京へ来て、8月12日に黄華外交部長と中日平和友好条約に調印した。その時の園田氏には日本を思い、民族の未来を思う責任感のようなものが感じられた。聞くところによると、出発前、自民党内の右翼組織の反発や激しい嫌がらせの中、園田氏は水垢離を続けたという。また北京へ向かう飛行中、パイロットに郷里の熊本県天草の上空を旋回してもらい、条約を調印するまでは日本に戻らないと心に誓ったという。私はそうした園田氏の姿勢に強く感銘を受けた。
条約交渉で見せた鄧小平氏のすごみ
中日平和友好条約の内容は、1972年の中日共同声明を書き写したもので、覇権に反対する(反覇権)条項はもとから含まれ、双方が賛成していた。しかし、日本で三木内閣が誕生すると、一転して「反覇権」の明記に反対した。100年以上にわたり諸外国に蹂躙された過去をもつ中国にとっては、絶対に譲れないことであり、条項を削るなど受け入れられなかった。
背景には2つの勢力があった。一つは自民党内の青嵐会をはじめとする右翼勢力の反発。もう一つは米国と覇権を争っていた旧ソ連の圧力であり、「反覇権=反ソ」になるとの主張だった。当時の中国はイデオロギーの面でソ連と争っており、その戦略に強く反対していた。
条約交渉で園田氏と会見した鄧小平副総理は「この条約は第三国に向けたものではない。覇権をとなえるもの、戦争を進めるものは絶対に反対であり、もしもそれが中国であれば、世界は中国に反対すべきだ」と強調した。これが中国の本音であり、鄧小平氏が見せたすごみであった。
平和と友好こそが中日の「大方向」
右翼やソ連の横槍が入り、国交回復から6年間も長引いた中日平和友好条約は、いろいろな困難を経て結ばれた。条約成立により様々な原則的な問題を、つまり中国と日本の関係をどうすべきかを法律で定められるようになった。
40周年を迎えた今も、私はあの条約の精神はすべて生きていると思っている。大事なことはこの条約をどう守っていくか、どう正しく運用するかである。これからも中日間には様々な摩擦や矛盾が起こるだろう。しかし、条約の基本精神である「平和と友好」こそが中日両国の「大方向」であり、堅持しなければならない。「大方向」を絶対に見失ってはならない。
ご承知のように巷では「中国は恐ろしい」とか、「脅威である」などの声が大きくなっている。しかし、中国は決して恐ろしい国ではない。中国の制度が「外国への侵略」を許さないし、人民も許しはしない。近年は急速な発展を遂げている中国だが、まだまだ遅れているところがあり、自国の建設に努めなければならない。「平和の道を歩む」ことは、社会主義建設の過程に生まれた中国の戦略である。国際情勢の変化、中国の社会主義建設の本質から見ても、中国は平和の道を歩むほかになく、戦争をすることは絶対にありえない。
「中国脅威論」は今に始まったことではなく、松村謙三氏らがLT貿易締結に向けて中国側と協議していた時代からすでにあった。周恩来総理が日本の代表団に対し、本当に辛抱強く説いていたことを思い出す。かつて私が通訳をした松村氏との会見では、周総理は「中国は100年来、他国の侵略を受け苦痛をいやというほど舐めてきた。どうしてその苦痛を他国へ与えることができましょうか」と話し、孔子の格言「己所不欲、勿施於人(己の欲せざるところ人に施すなかれ)」を引用した。
「半官半民」つくった多くの努力と勇気
私は「半官半民」の時代をつくり出した方々のご努力を高く評価している。日本側でいえば、松村謙三氏や高碕達之助氏がその代表格と言える。国交回復前の「民が官を促す」民間交流の時代から「半官半民」の時代に入り、10数年を経て72年の国交回復が実現した。LT貿易だって政府の後押しもあったからこそ実現できたと思う。それまでの中日貿易は友好商社を通じたもので、中小もあれば零細企業もあった。しかし、工場ごと中国へ輸出する、そんなことは政府の資金や支持がなければできっこない。「半官半民」の段階をつくり出せたからこそであり、多くの日本の方々のご努力の結果である。もちろん、その背後には皆さん日中友好協会の方々のご努力もあるし、毛沢東主席や周総理の采配、そして国際情勢の変化などもあった。あの時代に、多くのご努力と「勇気」があったからLT貿易が結ばれ、国交回復も実現できたと考える。
(構成・編集/本紙編集部)