言葉のニュアンスの変化
4月になった。ピクニックの季節である。多くの人たちは野山へ出かけるであろう。野山で何をして楽しむか、人によりけりだけれど、今や〝发呆〟をすることも、1つの素晴らしい選択肢になっているようである。
今中国でよく使われている言葉に〝发呆〟(発呆)というのがある。〝发〟は「発」の簡体字で、〝呆〟なら日本語でも同じ漢字なので意味はなんとかつかめるだろう。熟語の1つで、「ぽかんとする」「呆然とする」という意味である。
学生時代、授業中や先生からもらった課題が分からない時、机に向かって〝发呆〟をすることもあれば、青春時代、好きな人のことで頭がいっぱいな時も〝发呆〟をしていただろう。もちろん〝发呆〟は若者の特権ではない。大人になり、社会人として生活や仕事をする中で何かに迷った時も〝发呆〟をすることがあっただろう。しかし、これらはいずれも何かしらのマイナスのニュアンスが伴う場合である。
〝发呆〟を求める今
しかし、この頃の中国のSNS上では、日本へ旅行に行ったことについて、今までの爆買いや爆撮り、爆食いの代わりに、日本のどこかの田舎などへ行って、手つかずの自然や昔ながらの古民家に向かって〝发呆〟をしていたことが素晴らしかったとして投稿されているのをよく見かける。何も考えずにただ目の前の風景を眺めているだけで十分だ、という意味である。〝发呆〟は今や良い意味の言葉として中国では流行っている。
〝发呆〟という言葉こそ使っていないが、歴史上、中国の文人たちが残した、そうしたプラスのニュアンスが伴う〝发呆〟の様子を描いた文学作品はいくらでもある。
日本人の間でも良く知られている唐の有名な詩人杜牧の『山行』の1句「停車坐愛楓林晩」(車を停めて坐ろに愛す楓林の晩)は、車を停めて漫然と夕方の楓の林を眺めているという様子を伝えている。それから、詩人常建も『破山寺後禅院を題す』という有名な詩に次の句を残している。「山光悦鳥性、潭影空人心」(山光、鳥性を悦ばし、潭影、人心を空しくする)。古い禅寺でじっと座っていると、山の光(景色)が鳥の気持ちを楽しくし、古池の影(倒影)が人の心をきれいにしてくれる、ということを詠んでいる。心をきれいにするとは、正に〝发呆〟のことである。
ちなみに、上記の「坐愛」の「坐」に関しては、中国では〝由于、为着〟(~のため)と原因、目的の意味として解釈するのが一般的だが、何かのためにというよりも、むしろ日本語の「そぞろに」(なんとなく)と解釈する方が適切であると思うし、我田引水かもしれないが、いっそ、素直に「座って」と解釈しても差し支えあるまい。
現代社会では、旅行の時はともかく、それ以外でも、たまにはせわしい日常の生活から抜け出し、どこかで〝发呆〟してもいいだろう。
(しょく・さんぎ 東洋大学元教授)