「こもれび」と“花荫凉儿”
梅雨の季節になった。太陽が降り注ぐ日のことが恋しくなり、こもれびも懐かしく感じられる。
東洋大学川越キャンパスで授業を持っている。いつも新西門に入ったら、「こもれびの道」という石碑が目に付く。新西門から教室のある建物までの距離はそこそこあって、暑い日なら、そのこもれびの道を歩く時のすがすがしい気持ちは言葉で表すことができないほどだ。
「こもれび」は辞書では「木漏れ日、木洩れ日」などと表示され、岩波『国語辞典』では「茂った木の葉の間を漏れてさす日の光」と説明しており、ここでは「木の葉の間」がポイントだろう。対して、同じく岩波書店の『広辞苑』では「枝葉の間から洩れてくる日光」と解釈し、ここでは「枝葉の間」がポイントで、両辞書には微妙に違いがある。
「こもれび」の中国語表現
それでは「こもれび」は中国語ではどう訳されているのか。“从树叶空隙照进来的阳光”(小学館・商務印書館『日中辞典』)、“透过树叶的间隙射下来的阳光”(講談社『日中辞典』)のように、基本的に岩波『国語辞典』の釈義をそのまま中国語に訳した文言である。その中国語表現における微妙な違いについて、ここでは議論しないが、中国語には「こもれび」に対する熟語的な、例えば中国人の好む二字や四字熟語のような言い方はないのが事実だろう。中国語には「木陰」に対する“树荫”(樹蔭)という言い方はあるが、「こもれび」に対する二字や四字の熟語はない。それから『国語辞典』の釈義そのままでいいのかというと、これも残念ながら、筆者は『広辞苑』の解釈の方に軍配を上げたい。つまり「木の葉」だけでなく、「枝葉」、言うまでもなく枝も入れた方が論理的になると考えられる。
たまたま以上の話をSNSに投稿したら、北京外国語大学の中国語教師からなる“花荫凉儿” (花蔭涼児)というグループのメンバーから熱いコメントをもらった。上述のように「木陰」は“树荫”で、“花荫凉儿” は「花の蔭」という意味かとずっと思っていた。しかし、これは北京の地元の言い方ということで、ここの“花”は草花の花ではなく、「斑な」という意味である。つまり、花の蔭のことではなく、太陽が木の枝葉を地面か壁などに映した斑な模様のことを言っているのである。考えてみれば、田舎も同じ言い方であった。
日本語の「こもれび」は枝葉の間を洩れて地面などに映す日光のことだが、中国語の“花荫凉儿”は日光が映した枝葉の斑な模様である。日本語は日光の通過点(枝葉)を強調し、中国語はその結果(模様)を言い、同工異曲の妙と言えよう。
(しょく・さんぎ 東洋大学元教授)