中日の「鬼」
「鬼滅の刃」が流行っている。
これも鬼退治の話だが、伝統的には2月の節分に豆撒きをして鬼退治をする。鬼の本質は「人間」という概念の反対にある。それゆえ鬼には異形の者、無慈悲な者、さらには人間より大きく強靭な者といった性質が与えられるという。
日本の鬼は異形だが一応形があり、目に見える。しかも必ず一定の場所に住んでいる。もっとも代表的なのは昔話の「桃太郎」であろう。桃太郎は、家来の犬、猿、雉を連れて鬼退治に行く。そして直接鬼と対戦してしかも勝つのである。日本各地で節分には豆を撒き、いろいろな鬼を退治する。その際、現れた鬼を狙って豆を撒けば、鬼は退散する。鬼は異形で獰猛ではあるが、人間の手で退治でき、負けたら人間に従うこともある。
鬼の無慈悲なところを見据えて「心を鬼にして」という諺が、鬼の獰猛なところから「鬼監督」という言い方が生まれ、言語生活を豊かにしている。
中国語の“鬼”
日本語の「鬼」という漢字は中国から借りたものだが、中国語の“鬼”は日本語とは中身が全然違う。“子曰~敬鬼神而遠之”「子曰わく、~鬼神を敬してこれを遠ざく」で知られるように、“鬼”の概念は古からあった。中国の「鬼」は「神」と対となっている。偉い人が死んだら神に、普通の人や悪人などが死んだら鬼となる。
また“鬼”は普通、閻魔大王が管轄するという黄泉の国におり、普段は人間世界に現れない。たまに恨みなどがあり、肉体が死んでも魂は死にきれず鬼となって人間世界に残り、祟りをしたりする。でも、暗闇の夜に現れるのが普通だ。さらに鬼は普通形を持たないので、昼に現れても大体あるものに乗り移った形となる。そこで、その鬼退治は専門家を頼る。伝統的に鬼退治のできる専門家と言われているのは、道士や巫女などの専門職の人達であった。
形を持たないことから中国語では“疑神疑鬼”という諺が生まれ、懐疑心の強いことをいう。“疑心生暗鬼”という諺もあるが、これは疑う心に暗鬼が生ずるということで、あろうもないことに人を疑うことを意味する。
形のある日本の「鬼」とは桃太郎が刀で戦うが、形のない中国の“鬼”は「符」などで退治する。形のある鬼ならこちらは鍛えれば何とか退治できそうだが、形のない、心の中にいるような“鬼”には勝負しにくい。それでも自力でそれに打ち勝てる人間でありたい。
(しょく・さんぎ 東洋大学元教授)