学校生活の始まりを表す日本語と中国語
日中間で、同じ出来事でも違う漢語で表現することがある。〝开学〟と「入学」がそれである。東洋大学の大先輩・横川伸先生が中国の小学校に入学した時、先生が黒板に書いた〝開學了、開學了、窮人的孩子上學了〟「学校が始まった、貧しい人の子供は学校に上がった」という言葉が印象に残っていると伺った。
この〝開學〟(今は簡体字の〝开学〟)の日本語表現がずっと気になっていた。日本の学制では、4月が新学年の始まりで、小・中・高・大を問わず「新学年が始まる」時期である。
そして9月にまた「新学期が始まる」。学年や学期を気にしない場合、「学校が始まる」で十分だが、新入生にとってはしっくりこないだろう。さらに、これらはあくまでも、日本語の慣用句であって、例えば「入学」のような漢語的な言い方はないようである。
一方、中国では9月に新学年が始まり、そして、3月に新学期が始まる。新学年も新学期も〝开学〟一つで済む。対して、日本語の「開学」は訓読みすれば「学が/を開く」ことで、現代日本語では意味をなさない。しかし音読みすると、「学校を開設する」という全く別の意味になる。
「入学」の主体は学生
さて、「入学」は新入生を表す言葉で、中国語でも同じ表現があり、書き言葉でやや古めかしい使い方ではあるが、日本語と共通している。しかしこれは「学校に入る」で、「学校が始まる」ではない。人生の重要なキャリアである学校生活は、中国語では〝开学〟で、日本語では「入学」で始まる。この表現の違いは日中において視点の違いがあることを意味している。
〝开学〟は、学校経営者が行う行動と理解してもいいが、中国語としては、出来事、現象などを表す表現として理解した方がよかろう。一方、「入学」は、学習者の学生の視点からのものである。中国語では、学校が始まった、さあ、みなさんしっかり勉強せよ、ということだが、日本語では「学校に入った、これからしっかり勉強するぞ」ということとなるか。
客観的な出来事としての〝开学〟と、自分が主体性を持って行う「入学」にニュアンス的な相違はあるが、学校は学生にとって、自分の将来の夢を掴める場所である。
新型コロナウイルス肺炎の流行で、中国では3月に始まる新学期も延期しているようだが、夢を掴むことを胸に、若い皆さんには人生の新しいステージを迎えてほしい。
(しょく・さんぎ 東洋大学元教授)