会報『日本と中国』

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友好訪問詳細

友好訪問「友好を次の世代につなぐことが最大の使命だと思っている」

2015年8月1日号
洋画家 絹谷 幸二(きぬたに こうじ)さん
天水会会長
橋村 武司(はしむら たけし)さん

1932年長崎県対馬生まれ。戦時中の43年に旧満州へ移住。終戦後、鉄道技術者の義父、母と中国に留まる。53年に帰国し、中央大学工学部電気工学科を卒業後はシチズン時計株式会社や株式会社アマダ技術研究所などで研究・開発に従事。退職後は深センや北京などに駐在しセンサー関係の技術指導を行う。2011年に傘寿を迎えるまで科学技術者フォーラム理事、清華大学日中民間交流研究所顧問、関東日中平和友好会副会長などを歴任

戦後、鉄道技術者の義父と中国に8年間留まった

 70年前、日本の敗戦を鉄道技術者の義父、母、妹と共に中国東北部(旧満州)で迎えた。1年後の1946年、義父は帰国を目前にして、八路軍(共産党軍)の協力要請に応じ残留、中国語で言う「留用」を決断した。当時、中国の鉄道は戦争の混乱によって多くが破壊され、修復を行う技術者が必要だった。義父のために残った母を「支えなければ」と思い、自らも残った。妹は帰国し離れ離れに。13歳の時だ。「義父は最初、2年だけと言われていた」

一夜にして日本人と中国人の立場が逆転した

 長崎県対馬で生まれた。日本の戦況悪化で生活に窮すると、10歳だった43年、南満州鉄道勤務の伯父を頼って母と妹とハルビンへ。2年後、終戦を迎えた。

 「敗戦となり、一夜にして日本人と中国人の立場が逆転した。当時は子どもならがにショックを受けたのを覚えている。しかし、今思えば、私たちは中国人を追い出して街を作っていた」

 生活は一変し、働きながら各地を転々とした。軍靴工場で八路軍の布靴を作ったり、炭鉱労働をしたり。何でもやった。

 「機械を改造して生産量を2倍に増やし、『労働模範』として表彰されたこともあった」。青年期に体験した労動の日々は、「この先、どんなことがあっても生きていける」という強い自信に変わったという。特に、毎日のように事故が起き、常に死と隣り合わせの炭鉱労動は自らを大きく成長させた。17歳の時だ。

 49年に新中国が成立し、鉄道建設が本格化すると、翌年義父と共に甘粛省天水へ移住。蘭州までの鉄道敷設(天蘭線)のためだった。

帰国後は「日中友好」だけを思い生きてきた

 天水での生活はこれまでとは違った。中国側の配慮もあり、学校にも通えた。耳で覚えたという中国語は天水で本格的に学んだ。

 「周恩来総理の考え方が大きかった。『留用』の日本人は軍国主義者とは違うと、徹底して分けていた」

 天蘭線開通翌年の53年、大勢の中国人に見送られ日本へ帰国。大学を出て精密機器の技術者となり、退職後は中国関連の仕事に絞って技術指導などを行った。「日中友好」だけを思って、これまで生きてきた。

 一方、現在は、義父たち天水の鉄道仲間が帰国した翌年に発足させ、長く日中友好活動を行っている互助会「天水会」の会長を務める。時に戦争を知らない世代に体験談を語っている。

 「友好を次の世代につなぐことは最大の使命だと思っている」。今、中国政府が掲げる「一帯一路」構想に大きなロマンを感じているという。義父たちが敷設した天蘭線が重要ルートに含まれているからだ。「天水会3世と一緒にルートの高速化に協力したい」。そう意気込んでいる。
(北澤竜英)