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友好訪問詳細

友好訪問「感情を抑え、違いを認めて平和裏に付き合う“冷静な日中友好”が必要」

2014年9月1日号
公益財団法人日中友好会館常務理事、元日本航空株式会社常務取締役 荒井克之(あらい かつゆき)さん
公益財団法人日中友好会館常務理事、元日本航空株式会社常務取締役
荒井克之(あらい かつゆき)さん

1947年千葉県生まれ。69年拓殖大学商学部貿易学科を卒業し、日本航空に入社。中国路線開設準備委員・上海支店(74年)、成田空港支店旅客部課長(85年)などを経て92年北京支店長に。2003年には常務取締役に就任し中国事業担当や客室本部長を歴任した。10年に同社を退職。2014年7月から現職。趣味はジョギングとゴルフ。ホノルルマラソンを2度完走。中国語を復習中

上海で日中定期便就航を迎えて40年、7月に友好会館常務理事に

 40年前、日中間の定期航空路の開設に直接携わった。貴重な体験ができたのも「運が良かったから」と振り返る。それでも、中国への関心は子どもの頃からすでにあった。「運」は引き寄せたのかもしれない。

 幼い頃、戦時中に上海で捕虜になった父親から「中国人は戦争捕虜にも優しかった」と聞かされた。「中国人がそんなにすごいなら、大人になったら付き合ってみたい」。子どもながらにそう思った。

 「中国に関わる仕事をしたい」。当時では珍しい貿易学科がある大学へ進むと、第二外国語だけでは満足できず、深夜まで「中央人民広播電台」の短波放送を聴いて中国語を学んだ。そうした中、第三次学生友好訪中参観団で初訪中。ダイナミックな中国を目に焼き付けると気持ちは一気に高ぶった。1967年、20歳の時だ。帰国後、朝日新聞主催の中国語弁論大会で訪中の印象を熱弁し、第3位に。「中国との交流の“灯あかり”がかすかに見えたようだった」

「貿易」志望から一転して航空の道へ

 就職活動では伊藤忠商事の内定を取るも、知人から「日本航空を受けてみたらどう?国交正常化が実現すれば中国で働くチャンスも増えるぞ」と勧められた。一転して路線変更し69年に入社。「その5年後には上海で働いていたのだから運が良かった」。助言をくれた人には感謝している。

 74年に上海勤務を命じられると事務所の開設準備に奔走した。当時の中国には日本の基準を満たす航空設備が乏しく、苦労も多かった。また監視の目も厳しく、運輸省の認可申請のために整備部品収納倉庫の寸法を測っていると、小銃を持った空港警備の解放軍兵士に『何をしている』と止められたこともあった。

 「大変だったが、楽しんでやれた。これから日中間を多くの人が行き来すれば、交流も増え、相互理解も深まる。そう期待をふくらませた」

 そうして迎えた79年9月29日の日中定期便の就航。あの時の感激は今も忘れることはない。

 「航空会社勤務の良さは、様々なお客さまと顔を合わせいろいろな話ができること」。北京支店長時代には、作家の山崎豊子や孫平化・元中日友好協会会長(いずれも故人)ら著名人とも多くの接点をもった。一方で北京日本人会会長も務め、餅つき大会などの交流イベントも積極的に行った。「北京では家族と共に生活した。日本人学校に通っていた息子は南京城壁修復事業にも参加しました」

 中国勤務を通じ「“縁”はいろいろなところでつながっている」ことを実感できたと振り返る。人とのつがなりを大切にする姿勢、気さくな会話で相手に親近感を与える雰囲気は今も変わらないようだ。

「友好」の意味改めて考えるように

 日本航空退社後は企業の顧問などを務めた。そして、この7月に(公財)日中友好会館の常務理事に就任。活躍の場を友好交流事業に移してる。最近は、団体名にも含ま れる「友好」の意味を改めて考えるようになったという。

 「『友好』は本当に困った時にこそ頼りにできる関係。時には政治的な対立があっても立ち止まって『ちょっと待てよ』と考える。『人や経済の交流にまでブレーキがかかったら何が起こるのか』と考えてみる『冷静さ』が友好には大事。感情を抑え、違いを認めて平和裏に付き合う仕組みが今の日中には必要だと思う」

 誠意をもって、言うべきことを言うべき時に、言うべき相手に伝えられる。そうした友好交流を目指している。

 「最初は“熱い友好”でいい。でも、時間と共に“冷めた(冷静な)友好”が大事になる」
(北澤竜英)