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友好訪問詳細

友好訪問「政府間の問題とは関係なく交わる両国民を支援することは、日中関係改善にもつながる」

2013年9月1日号
外務省アジア大洋州局 中国・モンゴル第一課課長 植野篤志(うえの あつし)さん
外務省アジア大洋州局 中国・モンゴル第一課課長
植野篤志(うえの あつし)さん

1964年愛知県生まれ。87年に東京大学法学部卒業、同年4月に外務省入省。北京大学法律系、コロンビア大学大学院での留学や、経済協力局無償金協力課、アジア局中国課などでの勤務を経て、98年在米大使館一等書記官、2001年在中国大使館一等書記官・参事官。その後は国際法局条約交渉官、国際協力局政策課長、大臣官房在外公館課長などを歴任し今年7月現職に。週末は趣味のテニスで汗を流す

10年ぶりに対中外交の舞台に戻った新課長

 今年7月に外務省の中国・モンゴル第一課長に就任した。米中2カ国での駐在経験があるほか、国際協力や国際法関係の部署にも勤めた。「外務省に入ったのに、海外よりも日本での勤務の方が長い」という。

 1987年に外務省に入った時、研修語学に中国語を選んだ。理由は「日本の外交上、中国は避けては通れない重要な隣国」だから。翌88年9月から北京大学へ2年間留学。初訪中だった。

 「留学した当時の中国は改革・開放政策が始まって約10年。まだ発展途上段階で、店で物を探しても無いことが多かった。外国人が最初に覚える中国語は“没有(無い)”だと言われた時代だった」

 北京大学では、留学生寮に遊びに来る中国の学生たちと語り合い、食事もよく共にした。しかし、89年6月に「天安門事件」が起こると状況は一変。彼らとの交流は途絶え「寂しい思いをした」という。大学は半年以上も休校となったが、鉄道で一人中国を回ることができた。「チベット以外は全て行った」という。壮大な自然、人情豊かな中国の人々を目にし、中国への愛着がわいた。帰国して職務に復帰しても「心の片隅には中国があった」

“政冷経熱”肌で感じた経験が冷静に日中を見る

 ワシントンの在米大使館勤務の後に命じられた初めての中国勤務では、むずかしい日中外交を肌で感じた。北京の日本大使館に着任したのは2001年1月。留学から約10年が経っていた。

 急速な経済発展で様変わりした中国に驚いたのもつかの間、当時の小泉首相が同年8月に靖国神社を参拝すると日中の“政冷経熱”時代が始まった。その後、瀋陽総領事館駆け込み事件なども起こり関係はさらに悪化。「人の往来は活発なのに、両国政府の関係は起伏が激しかった。政治部で日中関係を担当していたが苦労話をあげればきりがない」と振り返る。

 03年に北京を離れ、東京に戻ってからまた10年。経験を積んで再び対中外交の舞台に戻った今、あの頃とは違った角度でより冷静に日中関係を見ている。「隣国なので、政府間でトラブルや誤解が生じるのはある意味当然のこと。逆にそういうことが日常的に起こるほど日中関係は深まったと言える。私が留学した頃は『なぜ中国にわざわざ留学するのか』と不思議がられたが、今は全く違和感のない時代。日本に来る中国の人も増え、コンビニや居酒屋などでは『彼らがいなければ成り立たないのではないか』と思うほど多くの人が働いている。互いの日常の中に相手国の人や文化や情報があふれ、日中間の垣根は低くなった」

日中間の垣根低い今こそ「国民交流」を支えたい

 国どうしの垣根が低くなった今こそ、「国民レベルの様々な交流を支援したい」と考えている。

 「政府どうしが問題を抱え対峙していても、それと全く関係のないところで日中の多くの国民が交わっている。そうした人たちの生活に支障が出ないようサポートしたい。人の往来や、互いの国での勉強、仕事がしやすい仕組みを作ったり、トラブルの際に相談しやすい環境を整えたり。そうしたことが、長期的には日中関係の改善につながると思う」

 外交官としてのモットーは「自分が信じることに誠実に」。「無理に何かを試みてもうまくはいかない。誠実に着実に、信じた仕事に取り組みたい」
(北澤竜英)