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プラットフォーム 橋本 逸男 ― (公社)中友好協会副会長 外務省OB、元大使、前東北大学教授 『鄧小平副総理が訪日した頃』

2017年6月1日号

39年前の今頃、私は、外務省中国課で日中平和友好条約を担当し、昼夜「奮闘」していた。8月12日、園田直・黄華両外相の署名(於北京)に漕ぎつけた時には、疲労困憊の中で、強い感動を覚えたものであった。このような重要な条約は、当事国が、国内の承認手続を了して、「批准書」を交換した後に発効するのが通例であり、それは10月に東京で、と定められた。
 鄧小平副総理は、この「批准書」の交換の為に、黄華外交部長他を伴い、10月22日来日、翌23日には、首相官邸で、福田赳夫総理と共に、園田・黄華両外相による「批准書」の交換を見届け、条約は発効した。官邸の大ホールで、行政府は勿論、立法、司法の首脳も参列して挙行された式典は、盛大なものであった。「担当」の私も連なって末席にあったが、その時の感動の思いは、なお新しい。
 副総理の訪日は、勿論、「批准書」交換が目的であり、関連する諸行事(昭和天皇との会見、福田総理との会談など)は最重事であったが、実は、それに劣らぬ緊要な眼目があった。
 当時の中国は、華国鋒氏が主席、国務院総理であり、鄧氏の序列はそれに次いだが、「声望」は高く、「第一の実力者」とも言われた。その鄧副総理が目指し、国民も期待したのは、政治の安定化と経済の発展であった。日本との条約締結自体も、以て中国の対外的地位の安定を齎し、それらに資することであったが、副総理は、更に進んで、「近代化」の一つの好例として、日本を具に視察し、理解すると共に、その様子を国民に見聞させ、やがて始まる「改革・開放」への方向転換に備えさせようとしたと思われる。
 副総理一行は、君津の製鉄所(後の「宝山製鉄所」設立に繋がる)、追浜の自動車工場(後の自動車産業の近代化、日本の自動車企業との協力へと続く)、大阪の松下電器工場(後の、松下幸之助に学び、松下の中国進出に繋がる)、「労働者」の家庭に至るまで精力的に訪問し、新幹線に乗車し、池袋サンシャイン(私が強く勧め、案内もした)を楽しむなど、飽くなき探求心で、「近代」の様相を見聞したが、最も感慨深く、新鮮にそれらを受け止めたのは、初めての日本からのテレビ中継放送を眺める、中国の市民たちではなかったか。
 かくして「準備」は出来、12月、中国は「改革・開放」政策を決定し、新たな発展に向けて、大きく舵を切る。
 日本はその後、この最も重要な隣国、中国の近代化、発展に向けて誠心誠意協力し、友好関係を発展させることになる。この点は、我々も誇りとして良いのではないか。
 日中平和友好条約40周年は大いに祝いたいと思う。